東京 下北沢 クラリスブックス 古本の買取・販売|哲学思想・文学・アート・ファッション・写真・サブカルチャー
東京都世田谷区下北沢の古本屋「クラリスブックス」
■ “R” の音の響きを軽く聞いてもらうくらいがいい
まず最初に、ワークショップ「本屋で写真を読む」の前段として、写真家の自己紹介や会の主旨説明を兼ねたトークにが行われた。
自分の写真について語る時、airi.さんはとても流暢に、と同時に慎重に言葉を連ねていく。表情はあくまで涼しげだが、静かな情熱が伝わってくる ような話しぶりだ。その情熱が、切羽詰まった自己表現や主張から遠く離れているようで、聞いていて心地よい。たぶん彼女のなかにはとても純粋な探究心が あって、それが大事すぎて“自分”みたいなものにこだわっている暇などないのかもしれない。曖昧で捉えがたい不思議な何かをどうにかして言語化したい―― それだけを欲望しながら、彼女は真剣に喋る。
そのなかで、“関係性”という言葉が繰り返しつかわれた。撮影者と被写体の、あるいは複数の被写体同士の関係、シャッターを切る瞬間とそれ以外のあ らゆる瞬間との違い、カメラのレンズから被写体までの距離感、自分と写真との付き合い方、そして写真と言葉の関わり合い。込められる意味は様々だが、彼女 は写真における“関係性”について長らく考えを巡らせてきたのだ。その思索の出発点は、写真への興味が芽生え始めた中学生時代だったという。
「たとえば仲のよい子と一緒に写ると、その写真のなかの自分はいつも自然でいい表情をしている。それはなぜなんだろう、と思ったのが始まりで した。誰がどのように撮るか、一緒に写る人が誰かによって、被写体の表情や容貌がまったく違ったものになるということが、とても不思議だったんです」
当時抱いた素朴な“不思議”を、彼女は大学卒業後に移り住んだパリにおいて自らの目と手で追求していくことになる。その成果である2冊を紹介しよう。
『Histoire of R』
2012年 1,800円
250×195mm
『SABAKU』
2012年 1,600円
230×158mm
ほぼ同時期に完成した、airi.さん初めての作品集である。『Histoire of R』の写真は主にパリで4〜5年間かけて撮りためたものであり、『SABAKU』には、アルジェリアの南方の砂漠に1週間ほど滞在して撮影した写真が収め られている。テーマも趣向も異なるこの2冊の共通点は、「何も限定しない」姿勢でつくられたということ。
「写真は特定の場所や時間を明確にすることが多い。写真集としてまとめる場合はなおさらそうです。それはひとつの見せ方に過ぎないのに、まる で撮る側にとっても見る側にとっても当たり前の前提のようになってしまっている。私は逆に、場所や時間といった何かを限定するような要素を、なるべく薄め ていきたいんです」
2冊の作品集を眺め、彼女の話を聞いていると、写真家airi. が目指す”関係性”のあり方が見えてくる。ような気がする。
特定の対象のなかにある何かを引き出したり、目の前に拡がる世界を何らかの枠にはめこんだりする気は毛頭ない。彼女が写真に求めているのは、“その とき・そこ”に漂う何か、としかいいようのない曖昧なものをあらわす力なのだと思う。そしてその何かだけを自分が感覚したとおりにあらわすためには、“そ のとき・そこ”にまつわる意味や情報をなるべくそぎ落とさなければならない。だとしたら、彼女にとって写真を撮る行為とは、まるで“そのとき・そこ”から 一瞬自分が消えてなくなるような体験なのかもしれない。しかしもちろん、シャッターを切るのはほかならぬ彼女の意志であり指であるので、何一つ限定しない 写真なんて絶対に撮れない。
彼女はそういう矛盾とか不可能性とかを承知した上で、だからこそ写真における多層的な“関係性”を大事にし続けてきた。“そのとき・そこ”に漂う何 かをなるべく意味から遠くへ逃し、しかも曖昧なままにつかまえるには、自分はその何かとどう距離をとればよいのか、自分と世界とはどのような関係を築けば よいのか――そんなことを、意識と無意識の境を揺れ動きつつ探り続けた軌跡そのものが、この2冊の作品集なのではないだろうか。
今回の写真展のタイトル「Rの話し」について、彼女は次のように語る。
「“R”というのはもともと、写真集『Histoire of R』に入れる写真を選んでいる時に、いつの間にかなんとなく浮かんだ一語。フランス語で発音すると、『空気』を意味する ” Air ” と同じです。といっても、『空気の物語』という意味付けがしたいわけではなくて、もう少し曖昧にしておきたくて、音の響きを軽く聞いてもらうくらいがいいな、と思っています」
タイトルの由来の説明としてはとらえどころがなさすぎる話なのに、なぜかしっくりくる。彼女の写真の数々が鮮明に脳裏に浮かんでくるような不思議な物言いに、思わず頷いてしまう。と同時に、ある当然の疑問が頭をもたげる――そんな彼女がなぜ、写真を言葉で限定するようなワークショップをわざわざ行うのか。
*
■ “見る=読む” 行為を煮詰めた、正解も正着もないゲーム
ワークショップ「本屋で写真を読む」の“読む”とは、airi.さん本人の言によれば、「写真から情報を読み取るということではなく、写真を見て受 けた印象、自分のなかに沸き上がる“感じ”を丁寧に読み取り、言葉としてあらわす」こと。そして“読む”対象は、写真家が自選した3枚の写真。参加者はま ず、2~3分間ほど写真をじっと眺める。眺めつつ、紙片に言葉を書きつけていく。写っている事物の名称の羅列でも、それらから連想した言葉でもよいし、写 真とは無関係に突如閃いた言葉でも何でもよい。とにかく写真を眺めつつ手を動かす。そしてそのいくつもの言葉をもとにして、写真家がファシリテーターと なってフリートーク。以上をそれぞれの写真について行う、というのがおおよその流れである。
airi.さんの写真をよく知る人は、その趣旨を聞いて首をかしげるかもしれない。彼女の写真への姿勢とこのワークショップとは相反するのではないか、 と。「何も限定しない」姿勢でつくられた2冊の写真集については、すでに前回のブログで触れた。なるべく意味や主張や情報を薄め、“そのとき・そこ”に漂 う何かを曖昧なままにとどめようとしてきた彼女が、なぜ言葉によってその何かを限定するようなワークショップを思い立ったのだろうか。
1枚目の写真を取り出す前に、彼女は自らそのことについて語った。
「“そのとき・そこ”で自分が感じたもの、写真に撮りたかったものっていったい何だろう。それを言葉で正確にあらわすことは絶対にできないけれど、とにかく言葉をつかえば考えたり伝えたりするスタート地点に立てる」
逆にいえば、言葉をつかってしか考えたり伝えたりすることはできない。さらに違う言い方をするならば、決まった答えがないということは、裏を返せば 何を言っても間違いではないということでもある。「正解を出そうとしたり、決めつけようとするのではなくて、言葉を通して1枚1枚の写真が持っている可能 性にじっくりと向き合う」ことが、今回のワークショップの目的なのだ。その結果はどうだったのか。3枚の写真それぞれに投げかけられたいくつもの言葉につ いて、以下レポートしていく。
・1枚目
写真集『SABAKU』に収録されている1枚。アルジェリアの南方の砂漠、村やオアシスが点在している地域で撮影されたものだが、参加者たちはもちろんそうした情報を知らされずに、写真そのものとだけ向き合う。
井戸、水、渇き、砂漠――など、連想の仕方や順番は人によって異なるし、それらの言葉に付される形容詞もまた人それぞれ。この写真のなかの情景から 生活感を受け取る人もいれば、打ち捨てられた廃墟とみる人もいた。なかには、「空ばかりが目に入り井戸の存在に気づかなかった」という声も。また、写真を 見る前に食べていたパンの味や体調のよしあし、天候の具合、明日の予定など、写真を見る側の状況や体験によっても、出てくる言葉は大きく左右されたよう だ。人間誰しも生きている以上、“見る”ことだけに集中することは難しい。
・2枚目
この写真をめぐっては、まさに彼女が重視し続けてきた“関係性”が話題になった。写真家と被写体との間に瞬間的に築かれた関係がどのようなものだったのか、参加者はそれぞれの仕方で読み込んでいた。
airi.さんがこの写真を撮ったのは大学卒業後パリに移り住んで2年目、半官半民で運営される低所得者層向け住宅施設の住人たちを被写体とした連作ポートレートに取り組んだ時のことだ。
「パリ13区にあるとても古い建物で、生活の匂いが壁にしみ込んでいるようでした。カメラ片手に飛び込みで『写真を撮らせてください』とお願いして回っているうち、引き受けてくれた方がまた別の人を紹介してくれたりして、何度も通って撮影しました」
撮影にあたっては立ち位置などを指示するだけで、被写体に複雑な要求をすることはなかったという。モデルを引き受けてもらった後は、「ほとんど出会 いがしらのような」撮影を心がけ、使うカメラやレンズの選定も含めて被写体との間の関係性と距離感を「つかず離れずのしっくりくる」ものに保つことに意識 を集中したそうだ。
ふつう、1枚の写真だけにこんなにもじっくりと見入る機会はそうない。写真集や写真展のなかの1枚として見るのであれば、前後のページや展示構成に 沿った見方になるし、1枚に割り当てる時間も自然と少なくなる。たとえば2枚目の写真が低所得者層向け住宅施設の住人たちのポートレート集としてまとめら れたとしたら、その作品集を手にとった者は、この被写体と他の様々な住人たちとの比較から“見る”ことを始めるかもしれない。関係性や距離感について何か を思う間もなく、頁を繰ってしまうかもしれない。もちろん、それがよいとか悪いとかいうのではない。ただ、それはあくまでも無限に可能な見方のうちのひと つでしかない、ということをいつでもなるべく忘れずにいたい。
・3枚目
さて、最後は3枚のうちもっとも抽象的な作品である。
「撮影場所は、パリのサン・マルタンという運河沿い。ガラスばりのブティックが並んでいるところ。たぶんそこだと思う。もしかしたら違うかも」
もはや写真家自身の記憶も曖昧で、いったいいつなんだかどこなんだか何なんだかわからないというのが、とても素敵。「見ているようで見ていないよう な写真」「真逆なものが融合されている」と、参加者の口から出てくる言葉も自然と抽象的なものばかりになった。これが写真家の感覚にもどうやら影響を与え た。
「見ているし、見ていないような感じといわれてハツとしました。写真を撮るときって、どこか具体的な一点を見つめていることもあるし、全体的 になんとなくぼんやりと見ていることもある。後から、これをいったいいつ・どんな状況で撮ったのかまったく思い出せないものもあります。この写真にうつっ ている要素を1つひとつ分析すると、空、窓、窓にうつる建物、カーテン、という風になるけれど、実際には、私はそんなふうには世界を見ていなかった。確かに、“そのとき・そこ”の私の視点は “見る”ということにおいてどっちつかずのものだったと思う。そのことをいま思い出しました」
このように極めて曖昧な写真に、airi.さんは「できればタイトルをつけてみてほしい」とリクエストを出した。
「タイトルは作品の見方を限定してしまうので、普段はつけることに抵抗があって、なるべくそれを避けています。でも今日はせっかく何人かで集まって1枚の写真に集中する機会が得られたから、実験的にこの写真にみんなで名前をつけてみたい」
airi.さん自身は、「柔らかい雰囲気の写真だからあまり甘い言葉はつけたくないし、かといってサッパリしすぎるのも違う、そんでもって異空間的 な感じも漂わせたい」などと考えた末、『昼にみた夢』というタイトルを付けたそうだ。参加者それぞれから個性的なタイトル案がいくつも挙がったが、 airi.さんがもっとも気にいったのは『逃げていく窓』というもの。ちなみに発案者は、当店スタッフの最年長者・石村であった。
以上、店内に飛び交った言葉を並べたり入れ替えたりひっくり返したり繋げたり閉じたり開いたりはしょったり盛り増したりしつつ、ワークショップの様子をレポートした。
時と場の制約によって“見る=読む”行為を煮詰め、感覚を過敏に働かせること。その上で自分のなかに湧き上がってくるものを、なかば強制的に読み取って言葉にすること。さらにその言葉を他者と共有すること。
振り返ってみてこの日の参加者たちの体験を要約すれば、そういうことになるかと思う。写真と言葉を素材とした正解も正着もないゲームに身を投じるこ とで、参加者たちはそれぞれ多くの刺激を味わうことができたようだ。でも、この日一番の収穫を得たのは写真家本人だったかもしれない。
「自分の感覚が拡がった気がする」
airi.さんはワークショップの後にぽつりとそう言った。自分以外のたくさんの目に作品をさらし、その場で言葉をやりとりしたことで、自分でも気づけなかった自分を発見できたという、実感のこもった感想だと思う。
*
言葉は、言葉以外の何かをあらわすためにつかわれる。とても便利だけれど、あらわされる何かそのものには絶対になれない。あらわされる何かに似たも のですらなく、それとはまったくなんの関係もないものである。だからみんながんばって言葉をこねくりまわす。ほとんど一語ずつ決定的に何かを間違いながら 喋ったり手紙を書いたり、それを破ったりする。だから言葉で遊ぶのはたのしいし、くるしい。そんなことを、あらためてごちゃごちゃと考えた夜だった。
「本屋さんという、言葉に囲まれた空間で今日の会ができてよかったです」
本屋冥利に尽きるairi.さんの感想を聞いて、また言葉とそれ以外の何かとをテーマとした“何か”をクラリスブックスでできたらよいな、とぼんやり思った。
airi.
1982年東京生まれ。2005年に渡仏、その頃より写真制作を始める。
12年、写真集 “Histoire of R”、“SABAKU-lesson.1-”を発表、パリやロンドンなどのアート専門書店にて取り扱われ好評を博す。ヨーロッパを中心にフォト/アートブックフェスティバルにも多数参加。13年秋より東京に拠点を移す。
主な個展に「SABAKU-lesson.1-」(’12 書肆サイコロ/東京)、「portraits 2006-2013」(’14 PlaceM/東京)、二人展「チカクノトビラ」(’14 ギャラリーYuki-sis)など。