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東京都世田谷区下北沢の古本屋「クラリスブックス」

『罪と罰』(ドストエフスキー) レビュー

2014年2月
文・高松徳雄

2014年2月、私の心の中でドストエフスキーへの想いが再び沸騰しはじめてきました。
2月22日より公開される映画「ドストエフスキーと愛に生きる」や、横浜で上演される「悪霊」、さらに、映画の字幕を手がける太田直子さんの「ひらけ!ドスワールド」出版など、私の周りで盛り上がりをみせるドストエフスキー熱に影響されてしまい、もう一度ドストエフスキーという巨大な作家について考えてみよう、そしていろいろと新訳版も出ているので、できればもう一度読んでみよう、と思い立ってしまいました。

ドストエフスキーと愛に生きるクラリスブックス

▲『ドストエフスキーと愛に生きる』
2014年2月22日(土曜日)、渋谷アップリンク、シネマート六本木ほか全国順次公開

演劇悪霊クラリスブックス

▲KAAT×地点 共同制作作品第4弾『悪霊』 

ドストエフスキーについての解説やその生涯については、私の稚拙な文章などではなく、現在出版されているドストエフスキー作品の巻末などに略歴は出ているし、ものによってはかなり詳細に載っているものもあります。ネットでもウィキペディアなどで比較的容易に調べられると思うので、そういったところに関しては、そちらをご覧頂ければと思います。

私はドストエフスキー文学の研究者などではなく、日本にも数多くいるであろうドストエフスキー作品を愛するファンの一人にすぎません。ロシア語もできません。ですからこれは論文でも解説書でもなく、いわゆる“ドストエフスキー体験”をした結果、その虜となってしまった一人のファンの想いを綴った日記とお考えください。
ドストエフスキー作品を人生のどのような時に読んだか、その時どのような印象を得たか、古本屋のホームページであるにもかかわらず、極個人的なことを書いていくことになります。ご了承くださいませ。

さて、私が最初に読んだドストエフスキー作品は『罪と罰』でした。時期は浪人生時代、たしか、すでに入試試験も終わり、一応進路が決まってほっとしている時に読んだのを覚えています。ところで先日神保町の三省堂で開催された、ロシア文学、ロシア文化の専門家であり、ドストエフスキー作品を多数訳されている亀山郁夫先生と、映画の字幕を作られている太田直子さんのトークイベントに行ってきたのですが(太田さんのドストエフスキー入門書「ひらけ!ドスワールド」出版記念のイベントでした。ちゃっかりお二人のサインも頂きました!)

亀山郁夫太田直子トークイベントクラリスブックス

お二人は『罪と罰』を中学2年から3年の時に読んだと言っていて、しかし作者ドストエフスキーについては全く何にも覚えていなくて、ただこの作品『罪と罰』を読んだ、ということしか記憶に残っていない、というようなことをお二人とも言っておられました。私が読んだのは19の時だったのですが、私もそのような形でこの作品を読んだのを覚えています。つまり、作品である『罪と罰』を読んだことははっきりと明確に覚えていますが、さて、作者については特に気にしていなかったのか、あるいは作品そのものの衝撃度が強烈で、誰が書いた小説かなどということを考えたり気に留める余裕すらなかったのか、ともかく作者のドストエフスキーという名前は記憶から欠落していて、その名前が再び私の人生で登場するのは、大学2年生になってからのことなのでした。この不思議な“ドストエフスキー体験”なるものは、多少程度の差はあれ、誰にでも起こりうる、なんとも不思議な共通体験のような気がしてなりません。

ドストエフスキー罪と罰

普通小説を読めば、例えば夏目漱石の『こころ』や、太宰治の『走れメロス』、カミュの『異邦人』、カフカの『変身』などなど、作者の名前は必ず記憶しているはずです。しかし、なぜかドストエフスキーに関しては、誰が書いたかということが記憶から欠落してしまっていているのです。それは、もしかしたら、作者が誰なのかはあまり意味のないことで、なぜなら、作品そのものが人間の原体験に根ざした非常に強烈すぎる内容のため、特に若い時に読むそれは心の奥底にぐさりと突き刺さって、なかなか素手では抜き取ることができないほどの深い傷を負ってしまう、とても危険な鋭い刃だからなのかもしれません。その鋭い刃を研いだ人間が誰なのか、そこまで気が回らないのかも。

さて、その鋭い刃である『罪と罰』について。
海外ドラマで「刑事コロンボ」という名作があります。見ている我々は犯人が誰だか分かっていて、ピーター・フォーク演じる、風変わりで一見無能そうなロス市警のコロンボがじわじわと犯人を追いつめて、最後には観念して捕まって終わるというパターンの刑事ドラマです。これは日本では田村正和主演の「古畑任三郎」がマネをしているので、若い人はこちらをよくご存知かもしれません。

ドストエフスキーの『罪と罰』にもそのような刑事ドラマ的な展開があります。我々読者は犯人を知っている、しかも犯人に多少同情・共感して、いわば犯人でこの小説の主人公であるラスコーリニコフの視点に立って物語が進んでいく。するとそこに敏腕な鋭い刑事が現れて、じわじわと主人公ラスコーリニコフを追いつめる。我々読者はドストエフスキーの巧みな心理描写によって、主人公と完全に同化してしまっているので、我々読者も刑事に追いつめられて、どこかに高飛びでもしたくなるような、そんな衝動にすらかられてしまう。このあまりにも生々しい体験を、夢と現実を交互に織り交ぜ、しかも細部にまでこだわる描写の数々を巧みに描くドストエフスキーの見事な筆力、それによって読者の心を小説の世界へぐいぐい引き入れてしまう、まさに小説家としての才能を存分に発揮している傑作、それが『罪と罰』なのだと思います。

「刑事コロンボ」には、ドラマ展開として大きく二つのパターンがあります。一つは極悪犯人もの。私利私欲のために計画的に何の罪もない人の命を奪う犯行。こちらの場合、完全にコロンボ頑張れ〜!となって、段々ボロを出す犯人がなんとも愉快で、最後に決定的証拠を突きつけられて逮捕されるという、とても単純明快で、見ていてすっきりする内容です。そしてもう一つのパターンは、犯人同情もの。計画的な場合もありますが、比較的衝動的に犯行を犯してしまい、その為いろいろと取り繕うも、結局コロンボに見破られるというパターン。こちらの代表作は「別れのワイン」。これはコロンボシリーズの中でも五本の指に入るほどの傑作でしょう。
『罪と罰』がどちらのパターンなのかと考えたとき、二つのパターンを兼ね備えているかな、と思いました。自分の利己的な考えの結果、強欲な老婆を殺害するに至るラスコーリニコフですが、その思想には理解できる面もありつつ、でもやはりついてゆけない面もある。その複雑に揺れる心は、読者の心であると同時に、主人公ラスコーリニコフの内面をも現しているように思えます。

すでに進路が決まっていたとはいえ、浪人時代のなにかしら鬱々とした状況の中、私は一人布団に包まって『罪と罰』を夜中読み続けていたのを覚えています。ちょうど季節が冬から春にかけてだったので、桜がそろそろ東京でも咲くような時に読み終わり、今まで延々と暗い闇の中を手探りで恐る恐る歩いていたところが、急にぱっと明るくなって、身も心も爽快な気持ちになったのでした。それはつまり『罪と罰』のストーリーとリンクしているような不思議な感覚でした。読書はただ単に文字を追って物語を頭の中に入れる単純な作業などではなく、その読んでいる物語が中心なって、そこから生まれ出る波紋を全身で感じることなのだと思えたのです。

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